ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)

前回の神戸旅で訪れた、ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)の備忘録です。気づけば、もはや2年半前のことで、現在は2016年11月年から2018 年 11 月まで約2年にわたる大規模保存修理工事中で、室内見学はできません。

今回の工事は、1985 年(昭和60年)から1988年(同63年)と阪神・淡路大震災に伴う災害復旧工事1995 年(平成7年)から1998 年(同10年)の2回の工事に続く3回目となり、防水工事や大谷石の補修がメインとなるそうです。

ヨドコウ迎賓館
1階の車寄せと玄関

完成後に犬養毅や、ライトと山邑家を引き合わせた星島二郎等と撮った記念写真の撮影場所。

ヨドコウ迎賓館とは

ヨドコウ迎賓館は、芦屋市山手町阪急芦屋川駅から歩いて7分の芦屋川沿いの傾斜地に建てられた個人の住宅で、大正時代以降として、また鉄筋コンクリート建築物としては初めて重要文化財に指定されました。

施主は造酒屋櫻正宗の8代目当主山邑太左衛門。設計は帝国ホテルなどを手掛けたフランク・ロイド・ライトですが、1922年(大正11年)のライトの帰国後は遠藤新と南信が引き継ぎ、施工は自由学園明日館や旧近藤邸などを遠藤と手掛けた女良工務店。石工は芦屋の石材業者、村瀬栄三郎といわれています。

原設計は1918年(大正7年)ライト来日の翌年で、帝国ホテル着工の1年前。

竣工は帝国ホテル竣工の1年後の1924年(大正13年)で、昭和10年に人手に渡り、事務所や進駐軍の社交場として利用されました。淀川製鋼所は1947年(昭和22年)から所有し、社長邸や貸家、独身寮などとして使われていたようですが、聞くところによるとライトの設計だとは知らずに使っていたとか。独身時代にこんな建築に住めるなんて、知らずとはいえとても贅沢な時間でしたでしょう。

老朽化により敷地内にマンション建設計画もあったそうですが建築界からの要望により保存を決め、1974年(昭和49年)に重要文化財指定、1981年(同56年)に調査工事、1985年(同60年)の保存修理工事を経て、1989年(平成元年)に一般公開されました。

2018年(平成30年)現在で築95年となります。

応接室のある2階へ。

ヨドコウ迎賓館

応接室の様子

ヨドコウ迎賓館

応接室の暖炉 中心にはホリホックハウスで実践した立葵のデザインも。

ヨドコウ迎賓館

応接室からの眺め

ヨドコウ迎賓館

応接室バルコニーのスリット

応接室に入ると天井と壁の境界にぐるっと一周回るように等間隔で小窓が配置されているのが目に入ります。これは、採光窓や通気口としての役割をもち、建物全体で100枚以上あるそうです。毎日朝晩1枚ずつ開閉していたとか。当時はガラスもはめられておらず、雨漏りの原因にもなったそうです。

ヨドコウ迎賓館

外側には立葵のデザイン。

応接室は平天井ですが、ライトの設計では船底天井で施工の段階で平天井に変更されたようです。変更の経緯についてはヨドコウ迎賓館HPのライブラリーの西澤英和氏の考察をご覧ください。
ヨドコウ迎賓館ライブラリー「旧山邑家住宅の応接室の意匠を考える。」

応接室のある2階から3階へ。

ヨドコウ迎賓館

大谷石の階段を3段上がると、8畳・6畳・10畳の3間続きの和室。

ヨドコウ迎賓館

天井を一気に上げておいて、三段の階段で合わせていくような感じでした。ライトの設計にはなかったそうですが、施主の要望により、遠藤新と南信が織り込んだとか。

ヨドコウ迎賓館

ヨドコウ迎賓館

廊下には飾り銅板をはめた窓が並びます。函館の田上義也のプレイリ―ハウスと比べてみました。

ヨドコウ迎賓館

4階は食堂と厨房。モールディングで縁取られ四面から中央に向かってせり上がる天井、三角形の小窓とそこから垂れる照明、中心に構える暖炉と、今までの部屋とは違って荘厳な印象を受けます。

ヨドコウ迎賓館

ところで、食堂も含めて山邑邸の室内仕上げは、砂漆喰に油性ペンキ塗りです。自然素材にこだわっていたライトからするとにわかには信じがたいことですが、「新建築」に記載された南信の報告書でも記述があるそうです。

その辺りの詳細な考察は、上記でリンクしたヨドコウ迎賓館ライブラリーの「旧山邑家住宅の応接室の意匠を考える。」と、「山邑邸の色彩復原に想うこと(1)」をご一読ください。

ここからは、ルーフテラスに出られます。南向きの高台で遮蔽物もなく、とても開放的な空間でした。

ヨドコウ迎賓館

3階の和室や応接室の真上にあたる場所です。実はここ、正確にはこのもっと先端の応接室の上にあたる箇所は大正の建設中に崩落事故が発生し、十数センチも沈下した事実があったとか。パラペットにも亀裂の進展を防止する鎹が打ち込まれていたそうです。室内のペンキ仕上げも応接室の平天井も自重を軽くするための窮余の策であったのではないかとの考察が、ヨドコウ迎賓館ライブラリーではとられています。

昭和60年の第1回の保存修理工事でも、応接室のある南棟の状況について、「基礎は全体に亘って沈下しており、東、西側通りの布基礎は南に傾く状態の不動沈下が起きていた。沈下の状態を測定した結果は図―12に示す。この不同沈下により、東側の基礎は、東、西方向の基礎と交差した部分に著しい亀裂が入り、上部の壁に及んでいた。」とあります。

山邑邸の室内意匠

切込みや仄かな明かりが、次の空間へなまめかしく誘うのがライトの空間設計。心弾むようにうきうきした心持で上れないのがライトの階段。かといって陰鬱になるわけでもなく、思考の深淵をのぞき込むようなちょっとした罪悪感と期待感がないまぜになったような不思議な感覚になります。

浮世絵の蒐集家であったライトは、日本の美意識に自然と影響をうけたのかもしれませんね。本人は否定しているようですが。

ヨドコウ迎賓館

 

ヨドコウ迎賓館

全体的にコンクリートが使われた中、ここだけは土壁だそうです。

天井のデザイン。

ヨドコウ迎賓館

大谷石のデザイン

ヨドコウ迎賓館

調査工事費について

第1回の工事費は、保存修理報告書によると、以下の通りです。
■調査工事・・・1千万円(国庫補助500万+所有者負担500万)
■修理工事・・・2億2,500万円(国庫補助1億1,240万+県補助3,750万+市補助3,750万+所有者負担3,760万)

南信は大正14年9月の新建築で以下のように書いてます。

「此の建物は始めライトのスケッチになつたもので、中途不幸にしてライトが記歸米した爲め、止むを得ず遠藤新氏と自分とで仕事をまとめることゝした、ライト氏が今此の建物を見て如何の感が有るか、恐らくは不滿なに滿ちてあらうと思ふ、ライト氏が、若し此の建物の進行を長く見まもってくれたであつたらうならば、或は今日ある形と全く變わって居たかも知れぬ、止みがたきは天地の數である。

ヨドコウ迎賓館で販売している工事報告書とHPのライブラリーを参考とさせていただきました。

ヨドコウ迎賓館

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四方田裕弘
  • 四方田裕弘
  • 1976年生まれ、東京生まれ東京育ちで2人の娘の父です。建物、特に近代建築が好きで、ちょっとした旅行でも近代建築を探し当て、見に行ってしまいます。

    【保有資格】CPM(米国不動産経営管理士)/(公認)不動産コンサルティングマスター/ファイナンシャルプランナー/宅地建物取引士/管理業務主任者/相続アドバイザー